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一週間前になりますが、8月2日、福井県の特定失踪者の山下春夫さんのお兄様の寛久さんのビデオメッセージの収録のご招待を受けまして 愛知県一宮市の山下さんのご自宅へお邪魔させて頂きました。
この日は名古屋からは私達名古屋ブルーリボンの会のメンバーの他に、名古屋市内在住の特定失踪者のご家族の方もご一緒することとなり、朝から雨が降る中私達は名古屋駅で待ち合わせ、一同メンバーの車で一宮まで向かいました。
予定よりも早く到着してしまい、暫く車の中で待機していたところ、娘さんが私達に気付いてご自宅の中へ案内して下さいました。部屋の奥から寛久さんが現れ、快く私達を出迎えて下さいました。とてもお元気そうなご様子でした。寛久さんの胸には青いビニールひもで作られたブルーリボンを着けておられたのが印象的でした。
しばらくすると今回の企画者でこの度私達を招待して下さった「福井県嶺南地区特定失踪者家族会」代表の澤氏御一行が到着。福井県から二時間程かけて一宮まで駆けつけてきたとの事です。久しぶりの再会を喜び合うのもつかの間、早速大きな荷物の中から機材やらを取り出し、収録の準備にとりかかりました。私達も椅子やテーブルを移動させ準備の手伝いを始めました。
寛久さんが今回の収録の為に書いた原稿を持ってきました。十何枚もつながれた和紙にご自身の筆でびっしりと書かれた長い巻物状の原稿が二部。随所に赤いペンで線が引かれてある箇所もあり何度も推敲した跡が見られました。
準備も整い、収録を始めようとした直前、澤氏が寛久さんに「はちまき、せんでええの?」との声が。すると寛久さんは奥からタオルのはちまき姿で再び現れました。寛久さんは山下春夫さんの救出活動を行うにあたって長年このタオルのはちまきをして取り組んでおられている、との事です。はちまきをした寛久さんの表情は先程とは違って引き締まった様に見えました。
収録開始。始めは長い原稿を膝の上に置いて寛久さんが読み上げていく。しかしこの状態だと目線が下にいってしまいうつむき加減で顔がはっきりカメラに映りません。そこで私達が原稿をカメラのギリギリ上に持っていき、それを寛久さんが読み上げるという方法に変更し、再度収録開始。用意してあったメッセージの文と要望書の二種の原稿を全部読み終え、無事収録は成功、終了しました。片付けながら澤さんや寛久さんが冗談も交えて元気に会話している様子を見て、今まで並々ならぬ努力を積み重ね、幾多の困難を乗り越えてこられた上での「強さ」をお二人に感じました。
収録が終わり、私達と澤氏一行は近くのお店まで移動し、昼食を兼ねた懇親会を行いました。澤氏からは今までのご自身の経験を交えた上で、「出来ることから実行して、出来なければ あきらめないでどのようにすれば良いのか。とにかく体を動かしかけずり回ることです。動かなければ世間から注目されませんよ。」との激励を受けました。
この日の収録の様子が8月3日付の中日新聞・福井地方版に掲載されました。
山下さんの肉声での訴え、何度も何度も手が加えられたしわだらけの直筆の原稿、澤氏の熱心な姿・・・。
言葉では容易く言い表せない、切実な想いを感じました。
大変貴重な機会を与えて下さった福井県嶺南地区特定失踪者家族会の澤氏ならびに救う会福井の池田会長に心より御礼を申し上げます。
日本での北朝鮮による拉致被害者は政府に認定された十七人の他に、特定失踪者と呼ばれる北朝鮮に拉致された可能性が高いとされる方々が何百人といます。日本各地で、中にはここ愛知県内で失踪したとされる方もいます。私達は愛知県内の特定失踪者の問題にも目をむけていきたいと思っております。是非皆様のご支援を宜しくお願い申し上げます。
今回の山下寛久さんのビデオメッセージは、9月19日(土)に福井県小浜市にて行われる山下春夫さんの集いにおいて公開されます。是非この集会にご参加下さいます様、お願い申し上げます。
なお、今回山下さんや娘さん、および澤氏らの承諾を得まして、
ビデオ撮影時に山下寛久さんが読み上げた要望書を以下に掲載致します。
お借りした墨書きの巻物原稿を入力しました。
(句点、読点、送り仮名は原文どおりです)
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(原文ママ)
特定失踪者 山下春夫さんのお兄様山下寛久さんによる
要 望 書
日頃は、横田めぐみさん始め十名の安否問題。特定失踪者山下春夫。宮内和也、山下貢さん達。四百五十名に及ぶ真相究明御支援に付て厚く感謝申上ます。私は昭和四十九年八月十七日夜宿舎の前の小浜漁港南側堤防へ夕涼をかねて魚釣に出かけた山下春夫の兄です。
当時春夫は小浜郵便局(現在)裏手の川辺に小浜ドック造船会社住込み職人として四国から働きに来て居た大工五人と寝泊りをして居りました。暑い夏の晩、魚つりに行くと云って出たまま不明となりました。夏の川は穏かで海辺で育った水泳の達人が水死することは考へられない。会社にもなれ積層も良解るようになり、仕事は楽しいと云て居た矢先の事件であった。
○一当時の上役棟梁の森下功さん(生存者叙勲者)にお会いすることが出来、積層も分るようになり生き生きと仕事をして居た。
○二落付仕事が出き良い仕事が出きる様になった。
○三船大工の良い若者が出きたことを社長に報告していた。
○四二丈夫で田鳥の海辺育ちの若者を水の中へ押し付ても死ぬ様な男ではない。
○五自ら死を考る理由がない。
○六行方不明になった現場には靴が左右バラバラとび散っていた。誰かに拉致された形跡が残って居た。
○七当時小浜警察署は移転し県教育事ム所となり夜の警備は手薄であった。
○八南川、河口、海に分て、幾日も掛て漁船で捜索して戴くも其の後も発見されなかった。
数多くの市民始め関係者の方に心から感謝を申し上げます。
平成十四年拾月十五日小泉総理大臣の勇気ある決断により北朝鮮の金正日総書記が拉致を認め謝罪。地村夫妻、蓮池夫妻、曽我ひとみさん達五人が日本帰国しの時点から山下春夫、山下貢、宮内和也等も拉致の観点から再調査を警察にお願いする。小浜ドック社長山脇広氏、山下春夫も北朝鮮に拉致されたに違いないと。あるとき見慣れない男があなたのドックにプラスチック船の修理の上手な職人がいますかと尋ねてきたことがあった。平成十九年四月拾日から十二日にかけて警視庁調査員が小浜市岡津海岸付近の調査を始め、南宮
神社社務所を捜索調査する。北朝鮮工作船が福井県小浜市岡津海岸を頻繁に利用していたことが警視庁公安部の調査でわかった。
渡辺季子さんの二人の子供が東京から陸路自動車で福井県小浜市岡津海岸、南宮神社、社務所へ運ばれ北朝鮮の工作船により拉致されたことが木下容子容疑者の証言により(昭和四十九年六月)確認された。
私達も記者クラブの御協力を得て漁船二隻による海上からの真相究明する。
山下春夫の失踪は二ヵ月後の八月であり、また魚つりの南川の堤防との距離は6Kの近距離で山下春夫も自動車で運ばれ岡津海岸から工作船で北朝鮮の清津に向かった可能性が高い。南宮神社の社務所で参加者の声も聴く関係者を纏めた結果、山下春夫は北朝鮮の工作船による拉致濃厚。特定失踪者調査会代表荒木和博氏に調査協力をお願いをした。重なる精力的、緻密な調査には脱帽。感謝。合掌。
例えば拉致は安全コース確保、手引者確保、拉致は深夜に決行する事を前提とした夜の調査も実施。疑問視される建物、若狭湾の海図、岡津海岸の詳細な調査建物の所有者、建設年月日等、国民に真相究明の調査を見て欲しかった。平成二十年拾月三十日権威ある特定失踪者問題調査会代表荒木和博氏一〇〇〇番台リスト十四次発表三十四名認定された。山下春夫、宮内和也、山下貢三人認定される。感謝。感謝。合掌。
愈々政府に認定して戴く正念場の年です。それには各県の警察署の再調査の調査活動の報告を待って最終的には日本政府は人権を無視した巧妙な完全犯の被害者を政府拉致認定して戴き、一日でも早く帰国出きる様懇願いたします。
最後になりましたが国民的課題である拉致問題に付て各警察署の再調査の心が被害者に届くようお願い申し上げます。私のさけび おわります。
^平成二十年八月
小浜市田鳥 山下寛久